pool

  その日は午後から雨だった。
  予報にない雨天にナッツハウスの五人は足止めされ、結局談話は午後いっぱい続くことになった。





  2階から少女たちのおしゃべりの声がする。天気のせいか客のいない店内に、それはかすかに響いていた。
  ナッツは憂鬱な気分で本のページをめくると、ふと窓の外に目をやった。しとしとと音を立てずに、レースのカーテンをかけたように向こうを霞ませて、シャワーのような雨が降っていた。眼前の湖面は無数の波紋を描き、歪んで空を映さない。灰色の空気があたりを覆い、直視できずに思わず目をつぶった。
  頭を振ってイメージを消そうとする。思い出したくない。思い出したくないのに残像がとぎれとぎれに浮かんでは消えた。




  「…ナッツさん?」



 
 
  急に後ろから名を呼ばれ、はっと我にかえって振り返る。声の主は階段を下りながらこちらを見て、歩み寄ると影の中から表情が読み取れるところまで来た。


  「…こまち」


  心配そうな心情を瞳の中に見つけ、後ろめたくなって視線を逸らした。できればこんな自分は見せたくなかった。特に彼女には。


  「…どうしたの。気分でも悪いの?」


  ほらどうだ、やはり心配をかけている。こまちの心配になど足ることなどではないのに、そう思ったら余計後ろめたくなって顔を逸らしてしまった。



  「…なんでもないんだ。…すまない」



  こまちの表情は見えないが、足音でこちらに近寄ったのがわかって、自分で気付いてみたら立ち上がっていた。大きな音をさせたのだろう、少しびっくりしたような声をあげる。こまちに心配をかけたくなくて…いや、本当はこんな自分を見せたくなかっただけだ、そのまま窓辺に歩いていって見たくもない空を見上げた。


  「…苦手なんだ。こんな空模様は」


  やっとそれだけ言った。
  そうだ。苦手なんだ…雨なんて。思い出す。思い出したくない記憶を。





  王子として守りたかったもの、守れなかったもの…鍵…王国…王冠…大切な人………
  一度考え出したらきりがない。失ったものが後から後から浮かんできて、心から溢れ出しそうになる。こんなことは初めてじゃない。
  雨のたびに思い出す、自分の過ちを。絶望的な状況で二人で逃げ惑った。そうだ…あの時も雨が降っていた…そうだ…






  こまちはなにを思ったのか黙ったままだった。
  それが嬉しいような寂しいような気分になって、自分も黙りこくってしまう。だがふと気になって振り返ると、驚いたことにこまちは微笑んでいた。



  「…ナッツさんは雨が嫌いなの?」


  こまちがゆっくりと窓辺に歩み寄った。もう逃げる場所も隠れる場所もなく、ナッツはただこまちを見つめた。


  「…わかるわ。でもね」


  こまちは微笑んだまま、ガラスにそっと手を重ねた。冷えたガラスが、こまちの熱を感知してそのまわりだけ白く曇る。


  「…わたしは好きよ、雨も」




  こまちはそれだけ言って、ナッツを振り返った。そして笑った。……こんなにも穏やかな笑みがあるだろうか…そんな瞳で……。



  「…だって、ほら。見て……」




  いつの間に雨は止んだのだろう。促されるままに外を見ると、湖面は穏やかに淡い太陽を映して静かになっていた。
  やっと雲の束縛を解かれた太陽が、だんだんに光を増して世界を色付ける。きらきらと筋の光が、ナッツハウスのガラスを通してこまちの顔を照らした。
 

  こまちがドアを開けてテラスに出た。しめったウッドステッキに出ていって、深呼吸をする。
 
  「…雨の後って、埃やゴミが洗い流されて、空気がこんなにきれいになるの。とっても澄んでいて、透明でしょう?」



  そう言って零した微笑みは、まっさらの空気の中でただただ柔らかく、穏やかな光に包まれて輝いた。



  そうか。
  そんな考え方もあるのか…。
  冷静を保とうと思考を巡らせてはみたものの、込み上げてくる笑みに対抗する手段はなかった。



  つられて深呼吸をしたナッツの心に、同じ柔らかな光が溢れる。不思議ともう嫌な記憶は溢れて来ない。そこにあるのは安らかな安堵。無くしたものは忘れない。自分の過ちは生涯消えない。


  だけど…
  もう雨は怖くない。
  記憶に苛まれてがんじがらめになることももう、ない。



  「うわー、晴れたね!あっ、見て見て!すっごーい、空がきれい!」




  こまちにつられて、ナッツも笑う。暖かな光が、二人を包んでいた。